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免許も身分も必要なし!?江戸時代の医者はどんな人だったの?

2018.06.10

免許も身分も必要なし!?江戸時代の医者はどんな人だったの?


江戸時代の医者は、現在の医師とは大きく異なっています。日本に西洋医学が本格的に導入されたのは明治時代以降のことで、江戸時代にはあくまでも漢方医がメインストリーム。蘭方と呼ばれた西洋医学は18世紀後半以降になって徐々に広まりました。また、驚くべきことに、当時は誰でも医者になれたのです。

■誰でも医者になれた!

江戸時代は、家業を継ぐのがその家に生まれた者の宿命でした。ですので、医者の家に生まれた人は医者になりますが、医学に全く関係のない家に生まれた人でも医者になることができました。


今日のような「医師免許制度」はありませんし、また特に規制もなかったため、誰でも医者になれたのです。


厳しい身分制度の中でも、医者は腕次第で社会的な認知を受け、出世が可能な特異な職業でした。そのためさまざまな階層の人たちが医者になりました。一生懸命に最新の知識を得ようと努力した医者もいましたが、本を読んだだけの医者もおり、江戸時代の医者は全くの玉石混交状態だったのです。


本を読んだだけならまだしも、ほとんど知識のない医者もいて、そのような医者は「やぶ医者」と呼ばれ敬遠されました。「やぶのほうがまだまし」という医者もいたらしく、竹になる前(やぶに至る前)という意味で「たけのこ医者」と呼ばれました。


落語に「藪井竹庵(やぶいちくあん)」という名前の医者が登場するお話がありますが、これはやぶ医者をもじったものです。

■「学統」は大事でした!

医者は身分を飛び越えて出世できる希有(けう)な職業でしたが、誰もが成功するわけではありません。突然医者になった人のところには患者は来ませんからね。


ですので医者になると決めたら、すでに医者として高名な人のところに弟子入りするのが普通でした(独学で開業する医者も少なくなかったのですが)。


誰に学んだか・どのような流派の医術を学んだかを「学統」といいますが、これが非常に重要でした。「あの先生の弟子なら大丈夫」「高名な○○流ならいいだろう」と学統が信用を担保するからです。


この辺りの事情は「お華」「お琴」などの習い事とあまり変わりません。事実、入門する際には謝礼としていくばくかのお金を包むのが普通でしたし、仲介をしてくれた世話人や師匠に盆暮れの付け届けを行うこともマナーでした。


また、「師匠の下で学んだことを他言しない、親兄弟にも話さない」といった内容の起請文(きしょうもん)を入門の際に提出しなければなりませんでした(神様に誓う「神文」の形を取ることも)。


各学統では自分たちの医術を口伝・秘伝として門外不出のものとしていましたので、入門する者から一筆取っておくことが重要だったのです。

■「遊学」はいいけど本当に遊ぶんじゃないぞ!

師匠の下で弟子として修業し、腕を上げて先生の代診ができるまで成長した後に独り立ちする、というのが開業までの通常のルートでした。ただし、大阪・京都・江戸・長崎などに遊学し、そこで高名な先生の教えを受けるというのも、医者修業の一環と考えられていました。


多くの若手の医者たち、医者の卵たちが遊学し、医学の勉強に励んだのです。ただし、なかには物見遊山に出掛けるのと変わらない者もいたようで、大槻玄沢(『ターヘル・アナトミア』の翻訳を成し遂げた杉田玄白・前野良沢の弟子/玄沢は2人から「玄」「沢」の字をもらって付けた通り名)は、

(前略)誠に京学仕候と申す名聞迄にて、上方見物致し帰国致候者多きやと存じ奉り候(後略)


意訳:「京都に遊学というのは建前ばかりで、上方を見物して帰ってきただけという者が多いことを知っている」

と、志の低さを苦々しく思う心情を吐露しています。今も昔も人間の「怠け心」は変わらないということでしょう。


「長崎に遊学してハクをつける」なんてこともあったようで、これには「あの先生は長崎帰りだ。名医に違いない」と患者にアピールする効果がありました。


もちろん高名な先生の下で一心不乱に医学を学んだ人も少なくありません。教科書にも登場する有名な人物でいえば、シーボルト(鳴滝塾)に学んだ高野長英・伊東玄朴、緒方洪庵(適塾)に学んだ福澤諭吉・大村益次郎・大鳥圭介らはその代表といえるでしょう。



江戸時代の医者はある意味特殊な存在でした。誰でもなることができ、身分制度を飛び越えて成功することができましたが、人に頼りにされ、成功するには努力と才覚が必要だったのです。


(高橋モータース@dcp)

⇒参考文献:

海原亮『江戸時代の医師修業』(株式会社吉川弘文館)2014年11月1日第一版発行/大槻玄沢の文はP.67より引用